岡部元信の生涯~要所を任された駿河の猛将

岡部元信(おかべ もとのぶ)は戦国時代の武将です。今川家の被官である岡部親綱の子として駿河国(静岡県)で誕生しました。生年は不明、戦いの記録は1548年に尾張国(愛知県)の織田信秀を破った小豆坂の戦いから始まっています。親綱は今川家のお家騒動となった花倉の乱で梅岳承芳(のちの今川義元)に味方して軍功を挙げており、元信も父と同様に義元から厚い信頼を受けて重用されました。

 元信の「元」は義元の一文字、「信」は親しい関係にあった武田信玄から一文字をもらったと言われています。元信は他に長教、真幸、元綱と名乗っていました。岡部氏は代々、武田家と親交が深く、今川家と武田家の同盟関係に大きな役割を果たしていたと言われています。

 元信は今川家の遠江国(静岡県)・三河国(愛知県)の経営に尽力しており、織田家の三河安祥城攻略にも参加しています。義元が上洛に向けて尾張国侵略を目論むようになると、元信は最前線基地となる鳴海城主に任命されて織田家に睨みをきかせます。

 1560年に義元が上洛に向けて大軍を発動させると、元信は鳴海城近くに設置された織田方の砦の軍勢と小競り合いを繰り返していました。桶狭間の戦いで義元が戦死すると、元信は戦いが終わった後も鳴海城に籠城し、織田家への抵抗を継続しています。織田信長は元信に義元の首級と引き換えに開城を申し入れ、元信は首級を引き取って城を引き払いました。しかしこれでは猛将である元信を満足させることはできず、駿河国への帰国途中に織田方の刈谷城を攻めて城方の武将を討ち取り、さらに敗走する今川軍の収束にも努めるなどの功績を挙げています。

 桶狭間で敗戦した今川家は義元の子・氏真が跡を継ぎましたが、氏真自身の戦意低下によって勢力は徐々に減退していき、やがて武田信玄、三河国を平定した徳川家康によって領土は侵食されます。元信は駿河国を追われた氏真に従って相模国(神奈川県)の北条氏康の元にしばらく身を寄せますが、やがて親交が深かった武田家に仕え、駿河国の経営や水軍の統括に尽力します。

 信玄の死後、武田勝頼の代になると元信は遠江国の楔となる高天神城を任せられます。遠江国における軍事権が元信に与えられる形になり、譜代以外の武将が軍事権を任せられるのは当時としては異例の抜擢でした。「高天神を制するものは遠州を制す」と言われるほど防御力が高い城でしたが、地形的には遠江国の中で補給困難な場所に位置していました。

 1575年の長篠の戦いにおいて勝頼が織田・徳川連合軍に大敗すると、家康が高天神城の北にある掛川城諏訪原城を奪取したことで次第に高天神城は孤立しつつありました。家康によって城の周囲に砦が築かれたことで補給路を断たれた元信は、勝頼に再三にわたって救援要請の書状を送りました。

 しかし長篠の戦いで大敗し、さらに上杉景勝との甲越同盟によって北条氏を敵に回した勝頼は、家康と北条氏の挟み撃ちを恐れて援軍を送ることができず、元信に降伏するよう指示しました。なお城中の軍監から勝頼に援軍を送らないよう書状を送っていたとの記録もありますので、城方としては早めの段階で窮地に陥っている武田家からの援軍に絶望の感を持っていたのかもしれません。

 家康は城を強引に攻めることなく、じっくりと兵糧攻めに徹しました。籠城後半年を経過した1581年3月には城内の兵糧が底を尽き、餓死者まで現れ始めました。元信はこれ以上の籠城は難しいと判断し、軍議を開いて城から打って出る覚悟をしました。城兵には最後の酒が振る舞われたと言われています。

 1581年4月、元信は約700人の城兵の先頭に立って突撃します。総大将が先頭に立つことは当時の戦いでは考えられないことで、元信の並々ならぬ決意が込められた突撃と言えます。最後は組討ちの末に元信は討ち取られ、城兵もほとんどが討ち取られました。家康は信長から高天神城の城兵をことごとく討ち取るよう言われていたこともあり、降伏を許すことなく容赦のない攻撃によって城兵を殲滅しました。

 この高天神城の戦いは武田家没落の序章でした。勝頼は元信に降伏を指示していましたが、城兵がことごとく討ち取られたことで世の中は「勝頼は元信を見捨てた」との見方をしていました。高天神城の城兵殲滅は信長による武田家崩壊策の一環とされており、1582年の信長による甲州攻めでは武田家から木曽義昌小山田信茂ら譜代武将をはじめ、多くの武将が織田方に寝返っています。高天神城の戦いに信長は直接関与していませんが、信長自身は武田家にとどめを刺す上でこの戦いに大きな意義があることを認識し、「武田家は援軍を出さない」というインパクトを与えるための絶好の機会として見逃さなかったと考えています。

 元信は生涯、戦略的価値が高い城ばかり預かっていることから、主君からの信頼は非常に厚かった武将と言えると思います。補給路を断たれた高天神城を半年も持ちこたえることができたのは、城主である元信の優れた統率力と人望によるものではないかと想像しています。

(寄稿)ぐんしげ

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