天下五剣とは
幾多の英雄剣豪の愛刀として時代を切り開いた名刀中の名刀「童子切安綱、三日月宗近、鬼丸国綱、数珠丸恒次、大典太光世」、これらの五振りはいつしか天下五剣と呼ばれた。明治、大正、昭和を通じて刀剣研究者の著書おいて紹介され、その名声は不動となった。
五という数字は、鎌倉五山、五山文化等の吉祥数の通例により天下の名刀に相応しい数字として五の数字が尊ばれたのだろう。幾多の日本刀の中で天下五剣とされた理由の第一は、その卓越した出来栄えと芸術性はもちろんとして、経てきた由緒来歴も名刀たる条件として欠くべからざる要素となる。天下五剣は、室町、戦国、安土桃山を通じて、足利将軍家にはじまり、織田信長、豊臣秀吉、徳川家康の三英傑は言うに及ばず、多くの英雄豪傑が惚れ込み、我が物にしようと血眼になった。それゆえに多くの逸話が生まれ、名刀としての名声が更に上がった。そうした多くの逸話こそが天下五剣の魅力といえるだろう。戦国乱世が終結し、江戸期には天下五剣の転変も終息した。結果、徳川将軍家が所有した天下五剣は三日月宗近のみだった。時代が進み、第二次世界大戦後の混乱期に起きた散逸の危機を乗り越え、文化財保護の潮流と保護制度の整備が進捗し、天下五剣継承の道程ができた。刀剣愛好家だけではなく歴史愛好者までが「三日月宗近、童子切安綱、大典太光世、鬼丸国綱、数珠丸」が一堂に会する展覧会。その実現を念願してやまない。
童子切安綱
童子切安綱の童子切とは、洛北大江山に跋扈した酒吞童子退治の伝承に由来する。刀工安綱は、伯耆国(今の鳥取県西部)の人。京の三条宗近と同時期に活躍した刀匠である。優美な作風の宗近と対照的で、質実剛健を旨とした作風が特長である。刀姿の剛毅さから江戸期には、罪人の死体を用いての試し切りが行われ、積み重ねられた6人の死体の切断し、尚且つ、台座までも切り落とす恐ろしいまでの切れ味だった。童子切安綱の来歴は、長徳元年(995年)、一条天皇より源頼光に洛北大江山の鬼・酒吞童子退治の勅命が下った。頼光は勅命を完遂し、清和源氏隆盛の基礎となった。しかし、酒吞童子退治は物語上の逸話に過ぎず、童子切安綱が使用されたわけもなかった。頼光の酒吞童子退治は、源氏の裔、足利将軍家の武権誇示の一環で、頼光の頃より継承した安綱作の名刀の一振りに童子切の銘をつけ、更なる発揚を目論んだ。
童子切安綱は、足利義昭、豊臣秀吉、徳川家康と時の権力者に継承された。家康の孫・勝姫の婚儀のさい、引き出物として越前福井藩主松平忠直に下賜された。しかし、忠直の乱心、豊後配流の結果、忠直の子・光長に継がれた。光長養子・宣富が美作津山藩主となると、津山松平家所蔵となった。第二次世界大戦後、忠直の子孫松平子爵家から民間へと移ったが、昭和三八年、東京国立博物館に委託保管され、三日月宗近ともに収蔵品として現代に至っている。
三日月宗近
三日月宗近の銘、三日月の由来は、打除けが三日月の形に似ていることによる。畢生の名工と賛美された三条宗近の作品の中、不世出の名刀として現代まで伝えられている。その特徴は、刀身が造る弧の優雅さである。足利将軍家は、幕府の権威を全国津々浦々に誇示するため名刀を蒐集した。天下五剣のうち、数珠丸以外の、四振りを「伝家の宝刀」として収蔵した。室町将軍の権威誇示のためであった収蔵行為が、四振りの名刀としての名声をさらに高めたともいえる。三日月宗近の来歴はというと、応仁の乱後、没落の一途たどる足利将軍家は、永禄八年(1565年)六月十七日、十三代将軍足利義輝が、松永久秀並び三好政康の謀反により殺害される(永禄の変)。襲われた義輝は三日月宗近で奮戦したとされている。
永禄の変の後も、四振りのうち三日月宗近以外の三振りは、足利将軍家で継承された。三日月宗近は謀反人の三好氏の手にわたり、三好氏は後に織田信長に屈服する時、仲介役であった羽柴秀吉(のちの豊臣秀吉)に贈答された。秀吉は三日月宗近を正室おね(北政所)に守り刀として与えた。寛永元年(1624年)に北政所が逝去すると、二代将軍徳川秀忠に対し北政所の形見として譲渡された。明治維新後も徳川宗家は数々の銘品を所蔵していた。太平洋戦争後は、所在が転々としたが、平成4年、東京国立博物館所蔵となり安住の地を得た。
鬼丸国綱
持つ者に不幸をもたらす刀、妖刀がこの世には存在する。鬼丸国綱も妖刀の一振りいえる。刀姿は大きく反り、天下五剣の中で趣のある作風といえる。鬼丸の作者・粟田口国綱は、御番鍛冶に抜擢してくれた後鳥羽上皇に深い尊敬の念を持ち続けた。承久の乱の後、上皇は隠岐へ配流となった。鎌倉幕府三代執権北条泰時の招聘を固辞してうえの同道であった。延応元年(1239年)、上皇は隠岐で崩御。国綱は泰時の招聘を受け鎌倉で作刀を始めた。五代執権北条時頼は、毎夜、夢に出る鬼に悩まされていた。ある夜、愛刀が老人に姿を変え現れた。曰く「錆にまみれ、汝の身を護り難し」時頼は愛刀の錆を落とし研いだ。結果、鬼は夢に現れなくなった。霊力を持つこの刀は、鬼丸国綱と呼ばれた。元弘三年(1333年)、新田義貞の鎌倉侵攻が成就すると東勝寺に追い詰められた北条高時は鬼丸国綱で自害して果てた。国綱の後鳥羽上皇を尊崇してやまない思いが妖刀に乗り移り、北条氏を滅亡させたのかもしれない。鬼丸国綱の新たな主人となった新田義貞も足利幕府との藤島合戦において討ち死した。鬼丸国綱は勝者となった足利将軍家の宝刀として所有された。足利義昭から鬼丸国綱を譲渡された豊臣秀吉だったが、手元には置かず、本阿弥光徳に預けた。大坂夏の陣での豊臣家滅亡をうけ、光徳は徳川家康に献上を申し入れたが拒絶された。その理由を推測してみると、鬼丸国綱の所有者であった北条、新田、足利、豊臣のいずれも滅亡してしまった。所有者を滅亡へと追いやる天下の妖刀と恐れたのだろう。明治維新後、本阿弥家から皇室へ献上され「天皇家御物」となり今日に至っている。
数珠丸恒次
数珠丸恒次は、備わった気品で見る人を感動させる逸品といえるかもしれない。刀工青江恒次は、後鳥羽上皇のお抱え鍛冶であった御番鍛冶の一人だった。文永11年、甲斐身延山を法華宗の本山と決めた日蓮は、開山のため分け入ろうとした。麓に住む長老より危難除けのためと一振の刀の寄進を受けた。久遠寺を開山したのち、寺に刀は不相応とし返却しようとしたが、長老は受け取らなかった。
しかたなく、日蓮は刀を久遠寺の寺宝として安置した。日蓮が束に数珠を巻き付けたこの刀は、数珠丸との銘がつけられた。数珠丸が天下五剣の一振に選出されたのには、本阿弥家の力によるところが大きいと想像できる。本阿弥家の家業は。足利将軍家や諸国の大名たちからの依頼で刀剣の鑑定、補修、維持管理であった。加えて、本阿弥家が法華宗の熱烈な信者であったのは無関係でないだろう。天正10年の織田信長の甲州征伐では、甲州領の社寺の多くが灰燼に帰した。だが、身延山周辺は、領主であった穴山梅雪が織田方に寝返ったため、久遠寺は戦火免れ、数珠丸も後世に伝承された。徳川8代将軍徳川吉宗の頃は久遠寺の寺宝として所蔵されていたことが「享保名物帳」なる文献に記載されていた。それ最後に行方不明となってしまっていた。ところが、大正9年頃、刀剣鑑定家の杉原祥造が発見した。彼の所在地が兵庫県尼崎市だった関係で日蓮宗本門寺派大本山 本興寺に安置され寺宝として現代に伝わっている。
大典太光世
大典太光世の銘にある大の字は刀身そのものが長いという意味ではなく、刀鍛冶三池典太光世の作の中で傑出した出来栄えであることに由来してつけられたであろう大の文字である。むしろ、天下五剣では最短の刀身となっている。短い刀身が、身幅を広く見せる効果を持ち、風格の高さが醸し出される。光世は、筑後三池(福岡県大牟田市)を西国有数の作刀の地とし、この地で三池派は隆盛を極めていく。大典太光世は、足利幕府初代将軍足利尊氏の愛刀となり、爾後、足利将軍家累代の家宝となる。また、大典太光世には不思議な力があるとされ、代々の将軍家を危機から救ったという逸話が後世に伝わっている。江戸時代、小塚原処刑場において御様御用の山田浅右衛門による試し切りでも切れ味の鋭さが証明された。
天正元年、室町幕府の終焉により、足利将軍家が所蔵する大典太光世を筆頭とする数々の名刀の所有者は織田信長となったとも、また、一説では、15代将軍足利義昭の出奔に携行され、のちになり義昭の庇護者となった豊臣秀吉に譲り渡されたとの逸話もある。その後、秀吉から盟友前田利家へと渡った。そのさいにも一つの逸話が生まれている。利家の四女、豪姫が原因不明の病になったとき、利家は、秀吉から大典太光世を借り受け、豪姫の枕元に置いたところ、病はたちまち平癒した。ところが、大典太光世を秀吉に返却した途端、病はぶり返してしまった。その繰り返しの三度目に、秀吉は大典太光世を利家に下賜した。こうして大典太光世は、加賀前田家の家宝となった。大正15年、前田侯爵家は、継承してきた家宝の散逸防止のため、管理団体として公益法人育徳財団(現在の公益財団法人前田育徳会)を設立した。現在、大典太光世は財団の所有となっている。
(寄稿)大松
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