北畠親房と神皇正統記

 北畠親房(きたばたけ ちかふさ)は1293年に生まれた南北朝時代の公卿であり史家です。息子の顕家は鎮守府大将軍として南朝方で戦った名高い武将です。
 親房は南朝の勢力拡大のために常陸国(茨城県)に上陸し、常陸・小田城に入ります。『神皇正統記』は陣中で執筆したと言われています。ここでは親房の人物紹介より、親房は同記でどのようなことを述べていたか書いてみたいと思います。
 北畠親房による同記の編纂目的は明らかになっていません。後村上天皇への帝王学資料、北朝方武将の懐柔、自身への問いかけといった色々な説があります。





 同記は「大日本者神國也」の一文で始まります。日本は神国であり、親房は天照大神の神意によって皇位を継承する国は日本以外にないと言い切っています。中国や朝鮮半島では血で血を争う王朝交代の歴史を歩んでおり、皇位継承を常とする日本とは国家形成が異なっています。
 神國は、元寇での神風、太平洋戦争時の神風特攻隊といった国外を強く意識した自国優越、精神統合の思想に基づくものではなく、神道を第一義とした皇統について力説しています。
 また「天竺」「震旦」「波斯」という文言が登場します。南北朝時代の日本ではインド、中国、ペルシャ帝国(現在のイラン)が世界を形成する大国として認識されていたことが伺えますので、当時の社会にあって親房には国内のみならず世界に目を向けた広い見識と相当の情報収集力があったことは言うまでもありません。
 親房は日本を世界大国と比較し、日本では皇位継承を違えることなく一種に定まってきたと記述しています。インド、中国での王朝交代の歴史を見ると、王朝関係者であっても力がなければ滅ぼされる運命にあり、皇統と血縁関係のない実力者が王朝の頂点に立っています。日本でも壬申の乱、保元の乱といった皇室関係者同士の争いが起きた歴史はあるものの、確かに皇室以外の者によって国が治められた歴史はありません。
 インド、中国との比較を踏まえ、親房は日本について日本だけは今日まで天照大神の神意による皇室継承は正しく行われてきたとし、日本独自の伝統は神國の思想によって純粋に継承されてきたことを強調しています。
 しかし例え皇室であっても乱逆、悪弊を行った場合は直系ではなく傍系血族者が継承することもあると皇室への警告とも思える記述があります。
 その具体例として、これまで親房は一貫して天皇が治める神國の在り様を論じていますが、”功績に鼻をかける者が君命を軽んじる有様を見ると、皇威もすでに地に落ちたかもしれない”として、南朝の重臣である親房が不公平な論功行賞を行った後醍醐天皇の失政を指摘しています。
 また親房は名指しで北朝側の足利尊氏を痛烈に批判していますが、承久の乱で後鳥羽上皇を討伐した北条泰時の善政を評価しており、親房の公正な批評が見て取れます。
 親房は巻末で自身が養育する後村上天皇について天照大神から受け継がれた正統の継承者と明記しています。建武の新政による失政や北条氏による執権政治について言及するとともに、南朝の正当性より皇統一種の正当性に重きを置いた記述をしており、南朝側に仕えていたとはいえ『神皇正統記』は客観的かつ公正な評価をしているのが特徴的です。
 





親房はこれだけの歴史書を陣中で編纂しており、現代社会のような情報メディアや通信手段がない中での親房の情報収集力、分析力は半端でないことを思い知らされます。

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