阿茶の局
阿茶の局 (あちゃのつぼね) は戦国時代の女性で、武田信玄の家臣・飯田直政の娘として1555年2月13日に甲府で生まれた。
名は須和とも言う。
父の飯田直政(飯田筑後久左衛門)は武田家臣だったが、武田信玄と今川義元が和睦した際に許しを得ると今川義元の家臣になっていた。
1573年、須和(阿茶局)は19歳のときに一条信龍の家臣・神尾忠重(神尾孫兵衛忠重)に嫁いで、神尾守世・神尾守繁を産んでいる。
しかし、天正5年(1577年)7月に夫・神尾忠重(かんおただしげ)が43歳で亡くなると、1579年、25歳の頃に見出され浜松城に入り徳川家康(38歳)の側室となった。
知識があり情勢分析も有能な美女で、馬術や武術も習得していたことから戦場でも徳川家康が近くに置いて、戦略などのアドバイスを求めた側室が阿茶局であったとされる。
そのため、徳川家の重臣からも一目を置かれ、徳川家の奥向きの諸事を任されている。
1584年、30歳のとき、小牧・長久手の戦いの陣中にて懐妊したが流産。
天正17年(1589年)、西郷局が亡くなると、替わりに徳川秀忠と松平忠吉を養育し、長男・神尾守世は徳川秀忠の近侍となった。
1614年、方広寺鐘銘事件の際に、豊臣秀頼と淀殿が常高院(京極高次の妻・お初)と大蔵卿局を駿府城に派遣すると、阿茶の局(60歳)が徳川家を代表して交渉にあたり和議をまとめた。
1615年、大坂冬の陣では本多忠純と共に徳川家の代表とにり、板倉重昌とともに大坂城に赴いては豊臣家や淀殿と交渉にあたっている。
1616年、徳川家康が死去すると側室らは剃髪して出家したが、須和(阿茶局)はその才を惜しまれ、徳川家康の遺命により出家しなかった。
そのため、他の側室と違い江戸城竹橋に屋敷を与えられて、中野村にて300石となり引き続き徳川秀忠の為に助言している。
1621年、徳川秀忠の五女・徳川和子(東福門院)が入内する際に、母の代わりとして京まで付き添い、後水尾天皇から従一位民部卿を賜っている。
従一位は最高の官位であり、神尾一位、一位の尼とも呼ばれた。
1632年に、徳川秀忠が54歳で死去すると、阿茶の局は出家して雲光院(うんこういん)と号した。
阿茶の局は寛永14年(1637年)に死去。83歳。
墓所は自らの開山した雲光院(東京都江東区三好)で、戒名は雲光院殿正誉周栄大姉。
なお、阿茶局の養女を娶り、神尾家に養子に入った神尾元勝(かみお-もとかつ)が、1606年に徳川家に登用され南町奉行を務めている。
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