下間頼廉とは
下間頼廉(しもつまらいれん)は、戦国、安土桃山、江戸時代を生き抜いた僧侶であり武将です。石山本願寺の坊官として顕如に仕えていました。本願寺顕如からの信頼が厚く、石山・本願寺の軍権を託されていたと言われています。
ゲームの「信長の野望」をプレイされている方はよくご存じかと思いますが、武将プロフィールの画像でも僧侶でありながら鋭い眼光を放ち、非常に高い戦闘能力を誇るあの方です(笑)。鉄砲隊を預けておけば、自軍の主力となって大活躍してくれますので、プレイ中は必ず配下にしたい武将の一人でした。
頼廉は1536年に誕生しました。生誕地や前半生のルーツは明らかでなく、関連文献では1570年から始まる石山合戦の頃からその名が現れ始めます。石山本願寺の勢力は現在の大阪府から北陸地方など全国各地に及んでいましたので、名が出るまでは僧侶として修養を積みつつ、坊官の勤めを果たしていたといったところでしょうか。
石山合戦は織田信長が石山本願寺の地を強く欲していたことに起因します。同地は経済的拠点であるとともに、貿易都市として栄えていた堺を容易に治めることが可能になります。また畿内にあることから京の朝廷の動向を把握することができます。信長はこうした利点を是が非でも獲得するべく、石山本願寺法主の顕如に石山本願寺の明け渡しを一方的に要求するとともに、資金まで強要し始めます。傍若無人のごとく振る舞う信長に対し、顕如はついに徹底抗戦の道を選択しました。
顕如の意向を受けて軍勢を整えた頼廉は、石山合戦では紀伊国(和歌山県)の雑賀衆と連携し、鉄砲隊を統率して侵攻してきた織田信長を大いに苦しめます。特に雑賀衆の棟梁である鈴木重秀と協力してその武勇を世に轟かせ、頼廉と重秀は「大坂之左右之大将」と言われるほど大活躍しました。ただし軍事力だけではなく内政面でも大きな活躍をしています。
加賀国(石川県)の坊官である七里頼周は一向宗門徒に対して粗暴に振る舞うとともに圧政を敷いていました。これに我慢ができなくなった門徒は頼廉に訴状を送り、頼廉は直ちに頼周を叱責します。当時は加賀国の隣国である越前国(福井県)の朝倉氏が信長の攻撃を受けて虫の息の状態であり、本願寺内部の分裂は絶対に回避しなければなりませんでした。門徒の頼廉への信頼の高さや頼廉の内部調整力が見られる一端です。
信長は「信長包囲網」の大将格であった武田信玄の病没と共に自軍を畿内に向けます。また石山合戦の長期化を見越して強硬策を取らずに兵糧攻めを選択します。石山本願寺には中国地方の毛利氏が後ろ盾となり、毛利水軍によって兵糧などの補給物資が送られていました。しかし鉄船を伴った信長方の九鬼水軍によって毛利水軍は壊滅状態となり、石山本願寺への補給は滞り始めます。
長島一向一揆・加賀一向一揆の壊滅、紀州攻め、補強路の遮断などが重なり、石山本願寺の士気は次第に低下していきました。そのような中、正親町天皇は顕如に信長と講和するよう勅命を発し、顕如は講和に応じます。講和の誓紙には頼廉も署名をしていることから、石山本願寺における頼廉のポジションは最高幹部であったと推察されます。
しかしこれまでの一向宗門徒の頑強な抵抗心はすぐに喪失することはなく、講和後も各地で門徒が反乱を起こしていました。頼廉は門徒の説得にあたり反乱の鎮撫に奔走します。また羽柴秀吉からは賤ケ岳の戦いにあたり、敵方の柴田勝家の領地である越前国で一向一揆を起こすことができれば加賀一国を与える旨を頼廉に伝えましたが、頼廉は依頼をきっぱり断って中立性を保ちました。以降、大名からどのような依頼があっても全て断り、本願寺が生き残ることを第一に活動しています。
こうした頼廉の姿を見ていた秀吉は本願寺への警戒心を解くことになり、顕如を本願寺に呼び戻すとともに、頼廉を京都本願寺の町奉行に任命しました。秀吉の死後、徳川家康の天下になると本願寺は顕如の長男・本願寺教如の東本願寺、三男・准如の西本願寺に分かれ、下間頼廉は西本願寺に従うことになりました。頼廉は本願寺の復活を見届け、1626年に90歳の天寿を全うしました。頼廉の子孫は代々、刑部卿家と呼ばれて西本願寺に仕えていきます。
頼廉の最大の功績は本願寺復活の先駆けとなったことと考えています。信長、秀吉、家康の時代において本願寺は武闘派のイメージが完全に根付いており、多くの大名が一向一揆に悩まされました。しかし頼廉の一貫とした「武力放棄」「中立姿勢」が結果的には本願寺への警戒心を解くことになり、お寺さんの本願寺として存続していくことになったと思われます。
現在の西本願寺は京都駅から徒歩15分程度のところに位置し、参拝者の心に寄り添う「お西さん」として親しまれています。国宝級の飛雲閣唐門などすばらしい建築物を目の当りにすることができます。
(寄稿)ぐんしげ
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