佐竹義直とは
佐竹義直(さたけ-よしなお)は、慶長17年(1612)10月に佐竹義重の五男として生まれました。そして、同年5月に義重は病死しています。
義重は自分の死後に生まれる義直が、家中の揉め事の要因になるだろうと考えていました。そのため、家臣の町田に義直を殺害することを命じます。悩んだ町田は事の顛末を、義重の後継者で義直の兄・佐竹義宣に相談したところ、殺さず育てるように命じました。
そのような経緯もあった中で、義直は町田のもとで育てられました。
そして、義直が3歳になる慶長19年(1614)。佐竹氏の分家の1つである佐竹北家の当主・佐竹義廉が大坂冬の陣に出陣途中で亡くなります。義廉の死はあまりにも急で、且つ義廉には後継ぎがいませんでした。そこで白羽の矢が立ったのは義直で、義廉の養子となり佐竹北家の当主となりました。
佐竹家家の当主として
元和7年(1621)に元服を迎えたころ、義直は義宣の養嗣子となることを徳川秀忠より認められます。当時、兄の義宣は 50歳を過ぎておりながら、嫡子がいませんでした。健康面を考えても子を作ることはできず、嫡子不在で改易になる恐れがあったため、急遽義直を世継ぎとしました。
しかし、元和10年(1624)に、家臣・矢野憲重の相続に対し、義宣と正反対の判断を下したこと。寛永2年(1625)には、義直のお守り役だった岡本宣綱が、仏像の彫刻に夢中だった義直を諫めるも、聞く耳を持たれなかったことで病を理由に秋田藩に帰国。その後、短刀で自傷して辞任する事件が起きたこともあり、義宣は義直を頼りないと見ていました。
廃嫡と出家
そして、寛永3年(1626)に義宣から廃嫡を言い渡されます。廃嫡の理由は、同年に江戸城本丸で催された猿楽の最中に、義直が寝ていたからでした。また、兄の義宣は伊達政宗から義直の居眠りを知らされたことも廃嫡の理由の1つと考えられます。
これに義宣は見込みなしと判断し、同年4月には義直を出家させました。
ちなみに義直の廃嫡後、義宣の嫡子となったのは義直の兄・岩城貞隆の子である岩城吉隆でした。
寛永5年(1628)、義直は義宣から高野山へ上ることを許可されます。10年後の寛永15年(1638)には正式に出家し、芳揚軒阿證(ほうようけん-あしょう)と名を変えました。また、仁和寺の覚深入道親王(かくしんにゅうどうしんのう)から師事を受け、正保3年には尊寿院号とその跡地を賜ります。
佐竹家からの支援もあり、慶安3年(1650年)に尊寿院を再興し、住職となりました。尊寿院は義直の縁によって、佐竹家から支援を受けました。また、佐竹家当主が京に滞在する際の宿所になることもあったそうです。
その後、義直は明暦2年(1656)に45歳で亡くなりました。若くして出家したため、妻子はおりません。
寄稿(拾丸)
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