水野忠重とは
水野忠重(みずの ただしげ)は、戦国時代の武将で刈谷城主・水野忠政の9男(末子)として天文10年(1541年)に生まれた。
母は大河内元綱の養女?・於富 / 華陽院(けよういん)。
同じ母が産んだ兄弟としては水野忠守、於大の方、水野信近、水野忠分などがいる。
異母兄・水野信元と共にはじめ織田信長に属し、1560年、刈谷十八丁畷の戦いなどで早くも武功を挙げている。
桶狭間の戦いのあと1561年から三河・岡崎城の徳川家康に仕えると水野忠重は宗家とは別行動を取っており、三河一向一揆との戦い、今川氏真が籠もった掛川城の戦いにて武功があった。
これらの功績にて1564年、水野忠重は鷲塚城主に任じられている。
そして、姉川の戦い、三方ケ原の戦いなどでも戦功をあげた。
特に三方ヶ原の戦いでは、徳川家康より兜と鎧を賜ったともあり、影武者を務めた可能性も考えられる。
その後も徳川勢として犬居城への攻撃、高天神城の戦いと活躍。
1576年、佐久間信盛が兄・水野信元が武田勝頼に内通していると織田信長に報告した。
兄・水野信元は謀反の疑いで徳川家康により岡崎・大樹寺にて謀殺された。
そのため、水野氏宗家の緒川城・刈谷城などは佐久間信盛の領地となったが、1580年8月、佐久間信盛が織田家を追放されて三河・刈谷城が空くと、織田信長から水野忠重に刈谷城が与えられた。
こうして水野家の宗家に水野忠重が取り立てられた。
以後、水野忠重は織田勢として織田信忠の与力となり、一族の水野守隆らと遠江・横須賀城に入り遠江・高天神城への攻撃にも参加している。
1582年、本能寺の変では織田信忠に従い在京していたが難を逃れ刈谷に戻ると、その後は織田信雄の軍勢に組み込まれた。
この頃、刈屋領7000貫文、緒川領6000貫文を領したとある。
1584年、小牧・長久手の戦いでは織田信雄側として参陣し、子の水野勝成は伊勢・神戸城の救援を命じられている。
そして、水野勝成は石川数正と共に岡田善同(岡田重孝の弟)が籠城した星崎城を攻撃している。
水野忠重も岡部長盛、大須賀康高、榊原康政、本多広孝、丹羽氏次らと活躍した。
豊臣勢が桑名城を包囲した際にも織田信雄と共に守り抜いた。
しかし、嫡男の水野勝成は、父の家臣・富永半兵衛が父・水野忠重に告げ口したとして殺害。
水野勝成は勘当となり諸国放浪する身となっている。
その後、織田信雄が羽柴秀吉と和睦すると、水野忠重は織田信雄の家来と言う身分になったが、まもなく豊臣秀吉の直臣として迎え入れられたようだ。
1587年、九州攻めに参加すると従五位下・和泉守に叙任され豊臣姓を賜っている。
1590年、小田原攻めでは250騎を率いて参陣。
戦功にて伊勢・神戸城4万石に移封となった。
1592年、朝鮮攻めでは肥前・名護屋城の御留守番陣衆の中に水野和泉守の名がある。
1595年、伏見城の普請にも加わったが、旧領である三河・刈谷城主に戻され2万石とあるので減封になったと考えられる。
豊臣秀吉の死後、1599年、放浪していた嫡男・水野勝成が江戸城の徳川家康の幕下に加わった。
また、娘・かな姫(18歳)が加藤清正の正室となり、大坂屋敷に入っている。
1600年、徳川家康の会津出陣では子の水野勝成が従軍したため、水野忠重は三河に留まっている。
しかし、浜松城から越前・府中城の新領に赴く堀尾吉晴を三河国池鯉鮒(愛知県知立市))にて歓待し酒宴を催した際、同席していた加賀井重望から西軍に誘われるも断ったのため水野忠重は殺害された。享年60。
※堀尾吉晴は負傷。
小山の評定のあと、西に転身した徳川勢として子の水野勝成は刈谷城に入ると徳川家康より3万石として水野家を継ぐように命じられた。
以後、水野勝成は徳川家康の側近となり、三河・刈谷藩主になった。
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