江戸時代、時代が幕末になると多くの志士たちが現れました。幕末の四大人斬りとして名を連ねた中村半次郎もその1人。彼が使用していた示現流は多くの薩摩藩士も多用していた剣術です。示現流は初太刀で相手を死に至らしめるほどの威力を持っていました。そのため、新選組内では必ず避けるよう念を押されていたほどです。
そんな示現流は、戦国時代に活躍した東郷重位(とうごう-ちゅうい/しげかた)の手によって創作されました。
今回は、示現流の開祖である重位の生涯と示現流創作に至るまでの経緯をご紹介します。
タイ捨流を学ぶ
東郷重位は永禄4年(1561)の3男として生まれます。父は東郷家の遠縁にあたる瀬戸口家の瀬戸口重為。天文23年(1554年)の岩剣城の戦いで、島津義久の御旗指役の務めた人物です。
重位は当初、瀬戸口姓を名乗っていましたが、天正に入ると兄の重治と東郷姓を名乗ります。これを許可したのは、島津家久の次男で東郷家17代目当主・東郷重虎でした。
若い時の重位は、タイ捨流を学んでいました。やがて、島津家に仕えた際は野太刀の達人として知られ、武勇誉れ高い薬丸兼成(やくまる-かねしげ)の付き人となります。そして、初陣となった天正6年(1578)の耳川の戦いでは兼成の力もあって、首級をあげました。
天真正自顕流を学ぶ
天正15年(1587)に島津家が九州征伐で豊臣秀吉に降伏すると、義久の上洛に伴い重位も従いました。その際、天寧寺の僧である善吉に出会い、示現流の元となる天真正自顕流を相伝されます。
薩摩国(現在の鹿児島県)に帰国後は天真正自顕流とタイ捨流を合わせた独自の剣術の創作に取り掛かりました。
示現流の創設
重位を慕う者も多く、慶長4年(1599)には多くの門下生を抱えていました。慶長9年(1604)には、その名声を知った島津義弘の子・島津忠恒の御前試合に参加。その際にタイ捨流の剣術師範を破り、忠恒の兵法師範となりました。
この時、逆上した忠恒に斬りかかれますが、丸腰の重位はとっさに腰に差していた扇子で忠恒の手を打ち据えて刀をかわした逸話が残っています。そして、重位の剣術は臨済宗の僧侶・南浦文之(なんぽぶんし)により「示現流」と命名されました。
その後、重位は寛永20年(1643)に83歳で病死しました。
重位の性格
重位は礼儀正しく、物事を荒立てない律儀で冷静な性格の持ち主。そのため、家老たちから秘密裏の相談を受けることが多かったそうです。
また、剣術だけの人物ではなく、貿易の拠点といわれた坊泊郷(現在の南さつま市坊津町)の地頭となっており、重位の文武両道さがうかがえます。
寄稿(拾丸)
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