剣術の源流ー兵(つわもの)達の流儀

剣術の源流

剣術の成立時期は定かではないが、奈良時代に成立した「日本書紀」に「撃刀」「多知宇知」(タチウチ)の記述がある。すでに奈良時代には剣術の原型が存在していたと推定できる。剣術は、平安末から鎌倉、室町、戦国の戦乱の中で進化発展していった。日々、命の遣り取りをする武士・兵士にとって護身術と戦闘術は欠かせない技術に違いなかった。結果、江戸時代末期までにおよそ700以上の剣術の流派生まれたといわれている。

「鹿島七流(関東七流)」と塚原卜伝

「鹿島七流(関東七流)」は、古墳時代に鹿島神宮の神官「国摩真人(くになずのまひと)」が「祓太刀」という剣術を考案し、「神妙剣」としてまとめ、鹿島神宮の神官七家に相伝された日本最古の剣術流派である。ただし、これは伝承に過ぎず証明する文献は残っていない。奈良時代末期から平安時代初期、東国支配に着手した大和朝廷は、東国一帯に土着していた蝦夷の激しい抵抗に苦慮していた。奥州侵攻と辺境守備の最前線であった常陸国や下総国には、腕に自信がある強者が集結し、必然、剣術の鍛錬が日常になった。
鹿島神宮の「鹿島の太刀」を古来より伝承してきたのは「国摩真人(くになずのまひと)」の末裔である吉川氏である。吉川左京覚賢の次男、吉川朝孝は塚原家に養子に入り、のちの剣聖塚原卜伝高幹(1489~1571年)の誕生である。鹿島神流(鹿島古流、鹿島中古流)、天真正伝香取神道流を学んだ。十六歳で諸国修行に旅立ち、十四年にわたる修行行脚で剣技は上達したが、死と隣合わせの暮らしの中で憔悴して鹿島に帰郷する。鹿島神宮に千日間参籠し精神を鍛え直し、剣技のさらなる研鑽に努めた。鹿島大神より「心を新たにして事に当たれ」との御神示が下され、鹿島新当流を創始した。同時に名乗りを「塚原卜伝」とした。生涯において「真剣勝負19回、戦働き37回、一度も不覚を取らず矢傷6ヶ所のみ刀傷一つなし、立ち合いで敵を討ち取ること212人」の伝説が残っている。また、室町幕府十三代将軍・足利義輝や伊勢国守護・北畠具教に剣技を教示し、「一之太刀」の奥義を伝授した。





「京八流」と源義経

「京八流」は平安時代末期に京都で生まれた流派である。流祖鬼一法眼が洛北鞍馬山鞍馬寺の僧八人に伝授した剣術流派といわれている。「鹿島七流(関東七流)」と同様、これも伝承に過ぎず証明する文献は残っていない。
幼少期、鞍馬寺で遮那王の名で稚児修行していた牛若(のちの源義経)は、自分の出自が源家嫡流であることを知った。僧になることを嫌い、来るべき平家打倒の機のため鞍馬山の天狗に剣術を学んだ。教授した天狗が鬼一法眼であり、伝授された剣術が京八流といわれている。義経の剣術は、小太刀を使い、素早く敵の懐に入り仕留めるのが特徴であったとされ、治承寿永の乱(一の谷、屋島、壇ノ浦)でも実際に義経が使用した太刀は短く、伝承を裏付けている。ただし、源義経が正史に登場するのは、平家討伐の旗揚げをした兄・源頼朝と伊豆国黄瀬川の陣において対面した治承四年(1180年、義経二十二歳)から奥州平泉(岩手県平泉町)おいて奥州藤原氏四代当主・藤原泰衡に攻められ自刃した文治五年の衣川の戦い(1189年、義経三十一歳)までの間、九年間しかない。その生涯は、「平治物語」「源平盛衰記」「義経記」の物語作品の伝承でしかない。前半生のほとんどが不詳(貴種放浪譚)と悲劇の英雄や栄光なき天才を好む日本人気質(判官贔屓)が、源義経を日本史上、最大級の英雄に祭り上げている。

剣術三大源流

「日本古武道総覧(日本古武道協会:発行)」では、剣術の流れを遡ると「念流」「神道流」「陰流」の剣術三大源流に分けることができる。前述の三大源流に「中条流」を加えて四大源流と称する場合もある

「念流」

 「念流」は、室町時代初期、念阿弥慈恩(1350~没年不詳)により創始された。「剣術三大源流」の中で最も早期に創始された流派である。念阿弥慈恩は南北朝時代から室町時代の禅僧であり剣客で、俗名を相馬四郎義元といった。義元の父・相馬忠重は、新田義貞に与した武将で、義元が五歳の時、殺害されてしまった。乳母に連れられ難を逃れた義元は、相州藤沢の遊行上人の弟子となり念阿弥と名乗った。仏門にありながらも父の仇討ちのため、京鞍馬寺、相州鎌倉、筑紫安楽寺と諸国で剣術修行に勤しんだ。剣技を極めた念阿弥は、還俗し父の仇を果たし、その後、再度仏門に入り禅僧となり名を慈恩と改めた。
 後代の武芸書「撃剣叢談」では、「念流」の流名の由来は、「一念をもって勝つことを主とする」であり、その精神は、「右手を斬られれば、左手で詰め、左右の手が無ければ、噛りついても一念を徹す」である。幼少で父を殺され、仇討ち一途に剣技を研いた念阿弥慈恩の生き様を彷彿とさせる。





「神道流」

「神道流」は、古来より常陸国鹿島神宮並び下総国香取神宮で伝承されてきた(東国七流)を母体として生まれた剣術の総称である。分流の「天真正伝香取神道流」は、下総国の人、飯篠家直(号は長威斉、1387~1488年)が室町時代中期に創成した。流儀の内容として剣術だけはなく、薙刀術、棒術、居合術、槍術、柔術、忍術、築城術までも伝授する総合武術である。この流派に影響を受けた剣豪には上泉伊勢守信綱、松本備前守政信、竹中半兵衛片倉小十郎の名立たる剣豪が名を連ねる。また、「天真正伝香取神道流」から派生した流派には、剣聖の名を今に遺す塚原卜伝を始祖とする「鹿島新当流」もある。
幕末動乱期の剣客、新撰組局長・近藤勇をはじめとする土方歳三、沖田総司等の「天然理心流」や、彼等と相敵対した薩摩藩士・中村半次郎(のちの桐野利秋、西南の役にて戦死)、大山綱良(初代鹿児島県知事、西南の役後、斬首)等の「薬丸自顕流」も「神道流」の流れを汲む流派である。

「陰流」

「陰流」は、室町時代中期、伊勢国の人、愛洲久忠(号は移香斎、1452~1538年)が始祖といわれている。愛洲久忠は、前述の「念流」の始祖・念阿弥慈恩の高弟「念流十四哲」の一人「猿御前」と同一人物もしくは子孫といわれている。伊勢愛洲一族は、熊野水軍に属した一族で平時は海運を主な生業にし、戦時には水軍として船戦で戦う一族であった。愛洲久忠が三十三歳の時、日向国の鵜戸神社に参籠し、天啓を蒙り開眼したとされる。
久忠の高弟、上泉伊勢守信綱(1508~1577年)は、「陰流」の奥義を極め、また「念流」「神道流」をも修め、自らの流派「新陰流」を創設した。上泉伊勢守信綱は、関東管領上杉氏に属した上野国大胡城主(群馬県前橋市)であったが、相州小田原の北条氏に攻略され開城した。その後、同じ上野国箕輪城主・長野業正麾下となった。永禄六年(1563年)甲斐国武田信玄により箕輪城落城、長野氏は滅亡した。武田信玄は、上泉伊勢守信綱の武名を惜しみ召し抱えようとしたが、その申し出を断り、戦国武将の道を捨て、自らの流派「新陰流」の普及と発展のため武芸者の道を選んだ。その門弟には、柳生但馬守宗厳、神後伊豆守、疋田文五郎などの達人が次々と育った。





「中条流」

「中条流」は、念流の始祖念阿弥慈恩の高弟「念流十四哲」の一人、中条兵庫助長秀(生年不詳~1384年)が創設した流派である。中条兵庫助長秀は、南北朝時代、三河国拳母城主であり、室町幕府において伊賀国守護、評定衆を歴任した。室町幕府三代将軍足利義満の剣術指南役も務めた。また、歌人としても高名で「新千載和歌集」「新拾遺和歌集」の勅撰和歌集に収載されるほどの才能があった。まさに文武両道の剣客といえる。「中条流」では、兵法といわず平法と呼び習わす。「中条流平法口決」では、
「平法とは、平の字、たいらかひとしと読み、夢想剣に通じる。この心、何と云うなれば、平らかに一生事なきをもって第一とする。戦いを好むは道にあらず。止事を得ず時の太刀の手たるべき。武を練る国へは隣国も働かず」
と、平法を教え諭している。意味するところは、説明するまでもないだろう。
ただ、戦乱が絶えない弱肉強食の室町時代において些か手緩い論理といえるかもしれない。それは、中条兵庫助長秀が、室町幕府内で将軍家の側近くに近侍す武家官僚であり、乱を好まない体制側の立ち位置であったことと無関係ではないであろう。
「中条流」からは、富田勢源の富田流、伊藤一刀斎の一刀流が分派した。その後、一刀流は、小野派一刀流、中西派一刀流、北辰一刀流、甲源一刀流に分派し、多くの優秀な剣客を世に送り出した。

(寄稿)大松

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