織田信長はどんな人・どうやって天下を目指したのか?5分で解説

織田信長(おだ-のぶなが)は、戦国時代の武将で、乱世のなか、畿内を統一し、事実上の天下を取った戦国大名です。
2023年NHKの大河ドラマ「どうする家康」(主演:松本潤さん)では俳優の岡田准一さんが織田信長の役として演じられる。

楽市楽座

いつの時代でも同じですが、強大な軍事力を有して、敵国を圧倒し、勝利するためには「お金」が必要です。
単に、合戦に強い武将がいるだけでは、勝てません。
有能な指揮官がいて、その下に、充分な兵力があり、食料などの補給、武器・弾薬の購入が充分にできないと、戦えません。
兵が増えれば、日頃の鍛錬を行うお金も必要です。
よって「経済力がある」と言う事が、強い大名に求められる根源となります。

織田信長

しかし、単に、お金を増やしたいからと、税額を上げると、庶民の反発を受けます。
<注釈> 甲斐の武田勝頼は、最後の頃、お金に困り、鉄砲の火薬も十分に買えず、税を臨時徴収するなどして人身の心が離れて行ったと考えられます。

その点、織田家は、まず「熱田神宮」がある熱田を抑え、海運などによる税の徴収にて豊かにし、尾張を統一しました。
また、1549年に観音寺城主・六角定頼が始めたとされる「楽市楽座」(らくいちらくざ)を、1568年から尾張でもおこないました。
「楽市」と言うのは、商人から税金を免除すると言うもので、「楽座」と言うのは、公家・寺院などが権利を与えていた商工業者団体の特権をなくすと言う事です。
<注釈> 例えば「油」「アシ」などの特産品などの販売も、寺院などが権利を持っていて、作っても自由に売ることができなかったのです。





また、関所を廃止して、他国から移住したり、商売に訪れることが、容易にもなるなど、古くから続いていた悪き規制を無くして、誰でも新しく出店し商売ができるようにしました。
商人が増えれば、その商品を供給する職人や農民の仕事も増え商工業も発達し、輸送に尽力する人材も増え、人口が多くなります。
人口が多くなれば、それらの人々より、税を徴収でき、結果的に、税も増収できると言う事ですね。

清洲城

商人が自由に商売できてれば、商工業は発展し、生産技術も高度化され、競合により物価も安くなります。
人口も増えて経済力が強くなれば、兵の数も多くでき、軍事力を高めることで、防衛も可能になる、攻めることもできやすくなると言う、斬新的な考え方ですね。
まさに、現代の「中国」も、そのような方針ですが・・。

また、関所を廃止して、物流を行いやすくするため、道路を広げたり、川に橋をかけました。
その交通の整備は、敵国が攻めやすくなりますし、自国の情報も敵国に伝わりやすくなるなど、マイナス面もあります。
<注釈> 本能寺の変の際、交通の要所に「関所」があったならば、明智光秀の行動も、早く察知できた可能性が高いと言う事もあります。
そのため、多くの大名は、そんなことをしなかったのですが、織田信長は、大胆にも、経済を優先したと言う事です。





そして、征服した土地でも、楽市楽座を導入しましたので、安土城の楽市楽座も有名です。
また、海外との貿易も盛んだった「堺」を抑え、更に経済力も増して行きました。

兵農分離の原型

織田勢は「槍」(やり)が「長かった」と言う事で、敵兵よりも有利に戦わせましたが、織田信長の政策で、次に注目すべきところは「兵農分離」です。
武将は職業軍人で、戦う専門の人でしたが、一般の兵は、普段は農業をしている「農民」(農兵)がほとんどでした。
そのため、武田信玄と言えども「田植えの時期」と「刈り入れ時期」には、合戦することができずにいます。
上杉謙信も軍勢を率いて出陣しているのは「冬」が多いです。
この制約を無くしたのが織田信長でして、一般兵を農民ではなく、職業軍人化しました。
よく兵農分離(へいのうぶんり)と言いますが、織田信長のときには、その原型と言えます。
農民の長男は、家を継ぐ立場でしたので、次男・3男といった立場の男性が、尾張の兵となって、城下町に住んだと言います。
職業軍人である軍役衆には、給料を支給する必要がありますので、これも、経済力がないとできない技です。
一番のメリットは、今、すぐ動かせる兵力が、どれくらいなのか?、常に、把握できている事です。
それまでの合戦では、大将と言えども、自軍兵力が、何千人いるのか?、正確な数字を把握して合戦に挑むのは、困難でした。
出陣して、みんな集合させたものの、思ったほど人数が集まらない状況で、火ぶたが切られて、負けると言う事があったのです。
この兵力把握が行いやすくなったと言うのは、大変有利に働いたと存じます。
また、専門の軍人となったことで、日々の訓練も行え、兵の経験も増し、強力になりました。
鉄砲は、簡単に使えた武器でもあったため、織田家の足軽鉄砲隊に代表される、強さですね。





身分の低い兵士である「足軽」が「常備軍」として常に城下町にいますので、すぐに出陣できると言う、即応部隊としても、有効になっただけでなく、1年間、いつでも、合戦ができるようにもなったのです。
更に、織田信長は、木下藤吉郎など、あまり身分にこだわらず、実力ある者を、取り立てましたので、恩賞目当ての兵の「やる気」もあり、士気も高かったと考えられます。
相撲大会で優秀だった者も、取り立てたとあります。

このように、織田信長は、まさにアイデア豊富な「戦国革命児」でして、見習うべきところは、いくつもあります。

清洲城 織田信長の居城ここにあり 清須城の詳細情報
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