現代にも通用する? 織田信長の組織づくり

織田信長(おだ のぶなが)は、斬新な数々の政策や戦術を駆使して、戦国の世を駆け抜けた人物ですが、ここでは織田信長の家臣団にスポットを当てていきます。

織田信長の組織づくり

織田家臣団は実力主義か?

織田信長の家臣と言えば、羽柴秀吉(のちの豊臣秀吉)、柴田勝家丹羽長秀佐久間信盛前田利家佐々成政滝川一益そして明智光秀と枚挙にいとまなく、他にも有力な家臣を多く配下に据えていました。
よく織田信長の家臣になれば、新参者であっても業績を残せば、城持ちに出世することも夢ではなかったと言われています。羽柴秀吉が代表例として挙げられるでしょう。
さらに佐久間信盛や林秀貞など織田信長の父・織田信秀の頃から仕えてきたと言われる譜代の家臣は本願寺との合戦の後、言いがかりとも言える理由で追放されています。
これらのことから、織田信長は能力のある家臣を適材適所に据え、実力主義で家臣団の淘汰を行い、最強の家臣団を形成したといわています。
しかし織田信長は本当に家臣の能力のみで家臣団を形成していったのでしょうか。

草創期の織田家臣団

ここで織田信長が家督を継いだ頃の情勢とその家臣団を挙げてみます。
織田信長が家督を継いだ時期は、父・織田信秀が亡くなった1551年と言われています。その頃の織田家はまだ尾張一地方の大名に過ぎず、織田信秀が亡くなったことで、のちに弟の織田信勝と家督争いを起こすことになります。当時、織田信長に直接従っていた家臣と言えば、前田利家、池田恒興村井貞勝などがいました。対して織田信勝には、柴田勝家、林秀貞など織田信秀の頃から仕える有力な家臣がいます。ここでの「有力」とは、兵の動員力が高い家臣という意味です。
寡勢で多勢に挑んだ桶狭間の戦いに勝利した織田信長であっても、合戦での兵力の必要性は充分に理解していたでしょう。しかし先に挙げた前田利家、池田恒興などは織田家譜代の家臣ではありますが、信長の小姓あがりであったり、幼馴染であったりで、戦の際の兵の動員力は、当時すでに家老職であった柴田勝家や林秀貞などには到底及ばない兵力差がありました。

合戦には兵力が必要

そこで織田信長は、織田家寄りであった国人領主たちを味方につけ、兵力の増強を図っていきます。この頃に出てくる武将に佐久間信盛がいます。佐久間信盛は、織田家譜代家臣と思われていますが、織田信秀の代では、明確な主従関係はなかったと思われます。佐久間信盛のように兵の動員力がある領主を従えることで、織田信勝との兵力差を埋めようとしたのではないかと思われます。
さらに言うのであれば、織田信勝の暗殺後、その側近であった柴田勝家や林秀貞は許され、信長の家臣団に組み込まれていきます。

兵力重視から能力重視へ

家督を継いだ頃の織田信長は、このように有能かどうかの基準ではなく、より多くの兵力を動員できるかどうかを基準として家臣団を形成していきます。
織田信長は、尾張を統一し、伊勢、美濃へと進軍していく中で、家臣も増やしていくことになりますが、のちに織田方面軍の司令官となる武将が美濃や伊勢での戦いの中で見出され、抜擢されて出世しています。この中に羽柴秀吉や滝川一益が含まれます。彼らの活躍が織田家は実力主義で家臣登用を行うという印象を周囲に根付かせたことは間違いありません。

強固な組織に

しかし、近江に安土城を築城し、畿内へと兵を進めた頃の織田信長は、自ら合戦の采配を振るうことはなくなり、柴田勝家ら各方面軍の司令官にかなりの権限を持たせるようになります。そしてその頃に織田家に仕えた家臣は、信長直属の配下であっても、各方面軍の与力として司令官の軍令の下に配置されるようになりました。ここに現れる武将には黒田官兵衛細川藤孝などがいます。彼らは後世の軍記物などで、あたかも信長の陪臣のように描かれていますが、織田信長の直臣です。
この頃の織田軍は、すでに日本の中枢を支配する大軍団となっており、草創期のように兵力目当てで家臣を増やす必要はなくなっています。その大所帯の中では、美濃や近江を攻めていた頃のように少しぐらい武勇に秀でていたぐらいでは、出世がしにくくなり、層の厚さがあったと思われます。
このように、織田信長の勢力が強大になるにつれて、家臣団の構成は変化しています。これは、組織を構築する際に現代でも通用する手法ではないかと筆者は考えています。
1.組織を作るにあたっては、有能、無能に限らず、まずは数を集める。
2.ある程度の人数が集まれば、その中から出てくる有能な部下を適所に登用しつつ、外部の有能な人物をスカウトする。
3.そして組織の形が整えば、各部門の長に有能な部下をつけ、さらに組織の拡大を図る。
成り行きかもしれませんが、戦国時代、織田信長という人物は現代でも通用する組織づくりを行っていたのかもしれません。

まとめ

戦国時代、裏切り、下克上が当たり前の世の中で、強固な組織を作ることは、難しい仕事だったと思われます。今回例にあげた織田信長以外にも強固な組織づくりを成し遂げた戦国大名は多く存在します。
しかし、織田信長と武田信玄北条氏康などとの特異点は、譜代の家臣の少なさ、親から受け継いだもしくは奪い取った家臣団の構成であると考えられます。譜代の家臣がいることは、それだけ動員する兵力も多くなり、戦いを優位に進めることができるでしょうが、反対に先祖代々のしがらみもあるはずで、効率的な組織運営に不可欠な適材適所の配置を阻害する恐れもあります。
織田信長は、家督を継いだ当初、家臣が少なかったがために、より強力な家臣団を欲し、しがらみなく、中世的な階級制度を破壊することで、強大な力を手に入れることができたのではないでしょうか。
ご存知の通り、織田信長は夢半ば本能寺で斃れますが、もし信長が生き残り、天下を統一していれば、どのような国家組織になっていたか、想像するのも楽しいかもしれません。

(寄稿)kazuharu

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