鳥居元忠とは
武断派と文治派
豊臣秀吉の子飼いの部将は、石田三成を筆頭に増田長盛、長束正家らの文治派と加藤清正、福島正則らの武断派に分かれていて、折に触れ衝突することが多かった。
豊臣秀吉による朝鮮出兵の「文禄・慶長の役」での扱いを巡って、両派は激しく対立することになる。
さらに豊臣秀吉が没すると、後継者の豊臣秀頼が幼かったことから、政権は「五大老・五奉行」の合議制で運営された。
徳川家を筆頭とする五大老は、政務を決定する政権の最高機関で、石田三成を筆頭とする五奉行は司法・行政・財務などの実務を中心に担当していた。
両派の争いを治めるために、五大老の前田利家が間に入り調整していたが、豊臣秀吉の死から8ヶ月後に亡くなってしまった。
両派の争いを止める者がいなくなったことで、これまで石田三成の政務に不満を抱いていた武断派の7将が石田三成邸を襲撃する事件が発生する。
石田三成は、武断派に捕まる前に屋敷を抜け出して命は免れたものの、奉行職を解かれ近江国の佐和山城に蟄居となった。
この対立を利用したのが徳川家康。
武断派の加藤清正、福島正則、黒田長政らと婚姻政策を結ぶことで、縁戚関係を増やして力を増大していった。
豊臣政権内で絶大な権力を持った徳川家康に危機感を感じた前田利長は、1597年(慶長2年)9月7日
豊臣秀頼の重陽の節句を祝うため大坂城を訪れた徳川家康の暗殺を企てようとするも、増田長盛の密告により失敗に終わった。
徳川家康は、加賀征伐に向かったが、前田利長らの必死の弁明により戦までには至らなかった。
豊臣秀吉の遺言で伏見城にいた徳川家康だったが、大坂城の西の丸へ移ると政権の中枢を担うことになる。
そこで、徳川方の勢力拡大と豊臣政権を弱体化するために、独断で大名の移封や加増を断行していった。
上杉征伐
1600年(慶長5年)4月
上杉景勝は、越後から会津120万石の国替えとなってから、会津を統治しやすくするため、新しい巨大な城(神指城)の建築に取り掛かっていた。
そこへ「謀反の心がなければ、ただちに誓書を差し出して上洛せよ。」との上洛勧告の使者を送った徳川家康だったが、上杉景勝の家老・直江兼続が上洛命令を拒絶する「直江状」を送ったと言われている。
直江状とは、謀反というのは戯言であり、上洛命令を拒絶する内容の文章として有名だが、原本が見つかっていないため諸説ある。
ただ、上杉景勝が徳川家康の命令を拒絶したことには間違いはなく、会津征伐は決定的となった。
会津征伐には、豊臣恩顧の大名・福島正則、加藤清正、黒田長政だけでなく、徳川家康の家臣・本田忠勝、井伊直政などを先発隊として向かわせた。
大坂城を出陣し、伏見城に立ち寄った徳川家康。
江戸時代中期の「常山紀談」では、徳川家康と鳥居元忠が酒を飲み交わした時の逸話が有名である。
徳川家康は、多くの兵を置いてはいけないが、伏見城を何としても守って欲しいと伝えた。
それに対して鳥居元忠は、会津は強敵なので一人でも多くの兵を連れていき、伏見には自分一人でも大丈夫と答えた。
そして、石田三成が挙兵しなければ再び会えるが、もしことがあれば永遠の別れになるであろうと語り、お互いに涙したとあるが創作とも言われている。
だが、鳥居元忠に伏見城の守将と僅かな兵しか残せないこと、ここは交通の要所だけでなく徳川にとって上方の拠点でもあるため、石田三成が挙兵すれば激戦地となることを伝えたのは確かと思われる。
これは忠義者の鳥居元忠に玉砕覚悟で城を守れとの命令にもとられるが、一方で石田三成が挙兵しても大軍を集めるだけの力など持ってないから心配ないだろうということも考えられた。
いずれにしても徳川家康の命を受けた鳥居元忠は、3千の兵で宇喜多直家を主力とする西軍と戦うことになる。
徳川一の忠義の士「鳥居元忠」
徳川家康が「竹千代」と呼ばれていた頃からの側近の一人。
武田信玄との三方ヶ原の戦いで、左足を負傷し、歩行時に後遺症が残ったとされる。
その後、長篠の戦い、天正壬午の乱にも参戦して数々の戦績を残した。
三河国の統一以降は、旗本先手役の任に就いた。
旗本先手役とは、徳川家康直轄の部隊だが、馬廻衆とは異なり、独立編成された機動部隊である。
そのため徳川家康の護衛だけでなく、戦闘にも積極的に加わっていた。
他にも東三河衆(旗頭:酒井忠次)、西三河衆(旗頭:石川数正)の部隊があり、三河の武士たちの多くは、この中に組み入れられていた。
徳川家康の関東移封後は、下総国4万石を与えられ、城持ち大名となった鳥居元忠。
伏見城の戦い
徳川家康が会津征伐のため大坂城を離れた後、三奉行の前田玄似以、増田長盛、長束正家
は挙兵の準備を進めていた。
大坂城三ノ丸で、徳川家康の留守居役らを追い出して占拠した。
その後、全国の諸大名に向けて弾劾状を送り、徳川家康の追悼を呼びかけた。
一方、鳥居元忠は、大坂城三ノ丸を追い出された兵、伏見城の兵の三千で籠城戦の準備を進めていた。
1600年(慶長5年)7月17日
毛利輝元が、西軍の総大将として大坂城へ入城すると、伏見城の鳥居元忠に城を明け渡すように使者を送った。
それに対し、使者を切り殺して拒絶の意を示した鳥居元忠。
西軍は宇喜多直家を総大将に小早川秀秋、吉川広家、長曾我部盛親ら総勢4万の兵で城を総攻めした。
西軍が総攻めをするも、伏見城は豊臣秀吉が築城した巨大な城で防備も堅く、鳥居元忠らの激しい抵抗もあり苦戦を強いられた。
戦が長期化することを危惧した五奉行の一人・長束正家は、伏見城にいる甲賀衆を調略して内部崩壊させることを試みた。
長束正家は、近江国・水口城の城主であったため、家臣に多くの甲賀衆を抱えていたこともあり、伏見城にいる甲賀衆の妻子を捕縛して内通するように脅迫したのだ。
甲賀衆は妻子を守るため、西軍に寝返ると城内に火を放った。
伏見城の戦いは、1ヶ月近くに及んだが、西軍の先発隊で雑賀衆当主・鈴木重朝との一騎打ちで鳥居元忠は討死したと言われている。 享年62
伏見城は落城したが、城内の兵らが西軍に抵抗を続けたことで、松平家忠など800人余りが亡くなったと言われている。
最終的に西軍が勝利したものの、鳥居元忠らによる激しい抵抗が予想以上であったため、後の戦いに影響を及ぼすことになる。
西軍は、徳川家康ら東軍に備えるため大垣城を本拠とした。
一方、石田三成らによる挙兵を知った徳川家康。
下野国・小山城で軍議を開き、引き返すことを決定。
伏見城の戦いから1ヶ月後の9月15日に天下分け目の戦い(関ヶ原の戦い)で両軍が激突し、東軍の勝利で終結することとなる。
その後
鳥居元忠は、徳川家康の信任の厚い部将だったが、伏見城の戦いの功績から「三河武士の鑑」と評された。
また、嫡男・鳥居忠政に父・鳥居元忠の忠義に応じるため磐城・平藩10万石が与えられた。
後に出羽国・山形藩22万石へ加増される。
伏見城にあった血染めの畳は、江戸城の伏見櫓に設置され、伏見城で戦った兵らを労った。
この畳は、明治維新で江戸城が明け渡された後、栃木県の精忠神社に埋葬された。
また、伏見城の戦いの遺物で有名な「血天井」は、焼け残った城の廊下で、今日の複数の寺院に納められている。
その中でも、京都の三十三間堂近くの養源院には、血で染まった廊下を踏まないよう天井に上げて弔っている。
当時の人にとって、伏見城の戦いは印象深いものであったため、忠義心の遺物などから後々まで語り継がれていく事となった。
(寄稿)まさざね君
魚津城の戦い~誇り高き上杉勢部将たちの最期
・羽柴秀吉が用いた奇策「備中高松城の水攻め」とは
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