黒田官兵衛の案を受け入れ羽柴秀吉により実行された奇策「備中高松城の水攻め」。
この戦法は、武州・忍城、紀州・太田城の水攻めと合わせて日本三大水攻めと呼ばれている。
また、織田信長が亡くなる「本能寺の変」が重なったこともあり、羽柴秀吉にとって天下人の道に踏み出す大きな起点となる時期でもあった。
中国征伐
山陰・山陽の大半を治めていた毛利氏は、吉川氏に次男・元春と小早川氏に三男・隆景を養子に据えた「毛利両川」の構築により組織を盤石なものとしていた。
そこへ「天下布武」を掲げ急速に勢力を拡大する織田信長が、毛利氏の治める中国地方にも勢力を拡大してきたことで、両氏の衝突は避けられないものになっていた。
中国征伐の命を受けた羽柴秀吉は、播磨を治めると山陰へ向けて侵攻を続けていた。
途中の備前でも、宇喜多直家の寝返りもあり侵攻は順調に進んだ。
一方、織田の脅威に晒された毛利氏は、織田軍の侵攻を防御するため、備前・備中の国境に「境目七城(備中七城)」を配した。
その一つが備中・高松城である。
中高松城の戦い
1582年(天正10年)4月
備中に侵攻した3万の羽柴軍は、黒田官兵衛の作戦にならい海手と上手の2方向から城の攻略を開始すると、兵数で圧倒する羽柴軍は境目七城のうち五城を落城させていった。
備中高松城を包囲した羽柴軍は、城近くの龍王山を本陣としたが、これまでの城とは違い四面を深田に囲まれた大軍では攻めにくい要害地となっていた、
城主・清水宗治は小早川隆景に援軍を要請すると、5千の兵と地の利を活かした戦いを続け士気も高かったため容易に落ちることはなかった。
長引く攻城戦は、毛利軍の挟撃に遭う危険性もあったため、織田信長に援軍の要請をした羽柴秀吉。
また、早期に落城させる打開策が見つからないまま10日が過ぎようとしていた頃、黒田官兵衛から奇策を提案された。
備中高松城の周辺の地形はすり鉢状になっており、水はけが悪く湿地帯が多いことを逆手に取るというものだった。
しかし、この奇策は高松城の近くを流れる足守川の流れを変えるため、城の南にある石井山から東方の蛙ヶ鼻にかけて堤防を築き、川の水を引き入れて高松城を湖中に孤立させるという壮大なものだった。
水攻めを受け入れた羽柴秀吉は、周辺の農民らを集めると銭や米を惜しまず出した。
これにより、通常では考えられない12日間という短い期間で堤防を完成させた。
さらに梅雨の時期が重なったため、数日後に本丸以外が水浸しの完全な孤立状態となった。
一方、清水宗治の援軍に向かっていた毛利輝元率いる毛利本隊は、備中の猿掛城に本陣を置き、吉川元春4千と小早川隆景3千の別動隊は足守川近くに着陣させた。
だが、毛利の別動隊は、目の前に広がる状況に驚愕することになる。
孤立した城に、援軍や兵糧を送ることも出来ない毛利軍。
羽柴軍との睨み合いが続くなか、甲斐の武田勝頼が織田軍に攻め込まれ自刃したという報せが届いた。
また、備中高松城内も兵糧が尽きると、空腹と疲労で兵の士気は一気に下がっていた。
毛利輝元は、備中高松城の兵を救うため、羽柴秀吉に和睦を申し入れた。
和睦の条件は、中国5ヶ国(備中・備後・美作・伯耆・出雲)の譲渡と城主・清水宗治と城兵の助命だった。
羽柴秀吉は、中国5ヶ国の譲渡については受け入れたが、城主と城兵の助命については拒否の返答をした。
その後も交渉を続けたが、強気の姿勢を崩すことなく平行線を辿り難航していた。
だが、羽柴秀吉のもとに届いた訃報が状況を一変させることになる。
「織田信長・信忠の親子が、京の本能寺で明智光秀によって討たれた。」というものだった。
黒田官兵衛の提案で織田信長の敵討ちを最優先とすることにした羽柴秀吉
和睦を早急に終わらせるための緩和条件を毛利氏に送った。
条件の内容は、「3日以内に備中・美作・伯耆の3ヶ国譲渡と城主・清水宗治の自刃。」というものだった。
条件を受け入れた城主・清水宗治は、城から小舟で羽柴軍の本陣に出向くと、羽柴秀吉の目前で舞を踊り、辞世の句を詠んだ後に切腹した。
武士としての最期を見届けた羽柴秀吉。
1582年(天正10年)6月
主君の仇・明智光秀を討つため、京に向けて怒涛の如く進軍を開始した。
俗に言う「中国大返し」である。
備中高松城から京・山城山崎までの約230㎞を10日間で踏破した羽柴軍。
この大強行軍によって、「山崎の戦い」で明智光秀を討ち取り、天下統一へと駆け上がっていく事になる。
一方、織田の勢力に圧倒された毛利輝元。
天下統一ではなく家名存続を選択し、豊臣政権下で五大老となり重きをなした。
(寄稿)まさざね君
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