「肥前の熊」龍造寺隆信の誤算~沖田畷の戦い

龍造寺隆信

戦国時代の1578年(天正6年)
耳川の戦い島津義久に大敗した大友宗麟
この大敗を機に大友宗麟に不満を抱いていた庶家や家臣の離反が相次ぐこととなる。
九州最大の勢力を誇り、西日本の一部も掌握していた頃の栄華は終焉に近づいていた。





この衰退を好機とみた龍造寺隆信。
大友家の傘下を離脱して肥前国を中心に勢力を拡大、島津氏との覇権争いを繰り広げていく。
龍造寺氏は小弐氏の被官だったが、龍造寺隆信が主家(小弐氏)を滅ぼすと肥前で独立を果たす。
また、体格に恵まれていたことから「肥前の熊」と呼ばれ、武勇と知略に長けた武将であったが、残忍な部分も持ち合わせていたと言われている。

1581年(天正9年)
九州制覇を目指し、肥後国へ軍隊を送った島津義久。
龍造寺隆信も嫡男・龍造寺政家と重臣・鍋島信生(後の直茂)を肥後国に派遣して、肥後北部の国人を次々と帰順させた。

島津氏に対して明らかな対抗姿勢の龍造寺隆信だったが、そこに予想外の悪い報せが届いた。
かつて逃亡の際に世話になった柳川城主・菊池鎮漣が島津氏と通謀しているというものだった。

信頼者の裏切りを知った龍造寺隆信は、2万の兵を率いて柳川城を包囲。
大軍で攻め掛かるも、難攻不落の城で知られていたため、攻城戦は困難を極めた。
短期決戦を諦めて兵糧攻めに切り替えると、今度は柳川城内の兵が飢えと疲弊で苦しんだ。これ以上の籠城戦が困難となり、田尻鎮種の仲介によって龍造寺隆信と和睦した。

龍造寺隆信にとって柳川の地は、九州を南下進出するには重要な拠点と捉えていたため、和睦により危機が回避されたが、菊池鎮漣が再び島津氏に接近することも十分に考えられたため不安は残ったままだった。

そこで、重臣の鍋島信生(後の直茂)と田尻鎮種を呼び出すと、機密裏に謀殺を画策するように命じた。

鍋島信生(後の直茂)らは、「龍造寺隆信が、和解の印として猿楽による宴席を佐賀城に設けている」ことを何度も丁寧に伝えるが、徹底的に始末する残忍な部分を承知していたので頑なに断り続けていた。

本人を納得させるのが困難とわかると、菊池鎮漣の母や重臣に丁寧に何度も接近して、周囲からの説得で断れない状況に持っていった。





佐賀城へ行くことを決断した菊池鎮漣は、屈強な200名の家臣を連れて柳川城を出発した。
佐賀城では、到着早々に龍造寺隆信の嫡男・龍造寺政家から歓迎を受けるが、翌日には龍造寺の部隊に襲撃されることになる。

最悪の事を予想していた菊池鎮漣は、襲撃部隊に対して家臣と共に奮闘するが、多勢に無勢で家臣たちが次々と倒れていった。
脱出を諦めた菊池鎮漣は、討たれる前に家臣に守られて自害、その後は全員が討死にした。

謀殺成功の報せが届く前に柳川に向けて一族抹殺の兵を送った龍造寺隆信。
菊池一族は抹殺され、柳川の地は龍造寺氏のものとなったが、このやり方に不信感を抱く重臣もあらわれ、国人からは強い反発や離反を招くことになった。

沖田畷の戦い

1584年(天正12年)3月19日
龍造寺隆信のもとに肥前の島原領主・有馬晴信が島津家と誼を通じて背信の動きがあるとの報せが入った。
嫡男・龍造寺政家に島原へ討伐軍を派遣するように命じるも、なかなか出陣するような動きが見られなかった。
討伐先が正妻の実家ということもあり、命令だが行動を起こせないといのが理由だった。
これに痺れを切らした龍造寺隆信は、自ら3万の兵を率いて島原に向けて出陣した。

龍造寺軍の出陣を知った有馬晴信。
島津義久に援軍を要請。
自軍は総勢3千だったため居城・日野江城に兵を集めて龍造寺軍に備えた。

当時、島津義久は九州統一に向けて肥後平定に着手していたが、有馬晴信からの要請を受けて援軍を送ることを決定した。
島津家中で一番の戦上手な島津家久が大将となり、総勢3千の援軍で日野江城に向かった。

日野江城に島津家久の軍勢が到着すると城内は歓喜に沸いたが、龍造寺軍3万を相手するには満足できるものではなかった。
島津家久は、大軍が展開するには困難な場所・沖田畷を選定、最終的に大軍を殲滅させるという案を評議で提示した。

当時の島原半島は、海岸から前山にかけて湿地と深田が一帯に広がっていて、2、3人が並んで通れるほどの畦道(畷)が縦貫しているところを沖田畷と呼んでいた。





有馬・島津の両軍の布陣は、支城・森岳城の本陣に総大将・有馬晴信、海岸に伊集院勢1千、内陸に赤星勢50、前山の山裾に伏兵1千、森岳城の背後に伏兵に島津家久勢とした。

1584年(天正12年)3月24日
龍造寺隆信は、有馬・島津の両軍は日野江城に籠っているものと思い込み、軍勢を沖田畷の中道に進めていた。
沖田畷で龍造寺軍の先鋒隊と島津勢が遭遇。
島津勢が少数だとわかると、先鋒隊が我先にと攻めかかっていった。

策通りに島津勢は、応戦することなく後退し始めると、更に追撃の勢いが増した龍造寺軍。
畷(畦道)の両脇に潜んでいた伏兵が射程内に入った龍造寺軍を確認すると、号令と共に鉄砲や弓が撃ち込まれた。

予期せぬ攻撃で龍造寺軍の先鋒隊が次々と倒れ、前線は混乱状態となった。
また、撤退しようとするが後続の兵が次々と来るため、湿地や深田に嵌る者が後を絶たなかった。
龍造寺軍の混乱を確認した有馬・島津の両軍は、三方から一斉に攻めかかった。

また、海岸線から進軍していた龍造寺軍2千に対しては、船からの大砲攻撃で難なく敗走に成功。

有馬・島津の両軍は、海岸線から龍造寺軍本隊に攻撃を仕掛けた。
この時、大軍にも係わらず寡兵に苦戦していることに腹を立てていた龍造寺隆信。
自ら前線に出て指揮を取ろうとしたが、島津家久の家臣・川上忠堅によって難なく討ち取られた。
享年56

龍造寺隆信が討たれたことを知った鍋島信生は、軍内に動揺と混乱が走る前に撤退命令を出した。
この戦で、龍造寺側の犠牲は龍造寺隆信だけでなく、鍋島信生の嫡男・龍造寺康房、宿老・小河信俊、重臣・成松信勝、百武賢兼など二千以上の兵を失った。





一方、有馬・島津の両軍は寡兵にも関わらず、島津家久による「釣り野伏せ」で大勝。
この戦を機に、島津氏の九州制覇は大きく躍進していく事となる。

(寄稿)まさざね君

大寧寺の変とは「西国随一」戦国大名・大内氏滅亡の原因になった政変
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