戸沢盛安の生涯を解説~出羽・角館城の”夜叉九郎”も小田原参陣中に病に倒れる

戸沢盛安とは

戸沢盛安(とざわもりやす)は出羽・角館城で生まれた戦国武将です。誕生したのは1566(永禄9)年、伊達政宗とほぼ同年代の武将です。
 出羽国(秋田・山形県)は地形的に縦長のため、盛安の代は勢力を持つ豪族が南北に勢力を広げようと争いを繰り広げていた地域でした。当時の戸沢氏は国衆のような立場で、出羽国北部の安東氏、南部の小野寺氏などと戦火を交えていました。遥かに大きい勢力を誇る大名を少ない兵力で打ち破る鬼神と化す盛安の姿を、人々は”鬼九郎” ”夜叉九郎”と呼んでいました。
 盛安は父・道盛によって同族内の混乱が解決されたことを契機として、13歳で家督を継ぎました。時に1579(天正7)年。織田信長が中央で覇権を唱え天下統一に向けて着々と勢力を拡大していた時期です。盛安には兄がおりましたが、兄が病弱だったため当主になりました。この激動の戦国期を乗り切るべく、わずか13歳で当主の座についた盛安の心中はいかばかりであったでしょうか。
 そのような状況の中、盛安は織田信長と誼を通じようと鷹を献上するべく使者を遣わしました。この使者が信長の前で領主であるかのような振る舞いをするなどトラブルがあったようですが、中央から遥か東北の地で当時14歳の盛安が外交活動を展開していたことを想像すると、政治感覚に優れた武将だったことが伺えます。
 また盛安は外交活動が得意だったようで、1588(天正16)年に起きた「仙北干戈(せんぼくかんか)」と呼ばれる小野寺氏での内紛を鎮めるため、出羽山形城主の最上義光と共に積極的に和睦交渉に乗り出すなど、仙北地方の安定化に向けて柔軟な外交姿勢を貫きました。
 卓越した外交手腕、政治感覚を持つ盛安ですが、本領を発揮したのは戦場でした。
 戸沢氏は国衆という独立性を保ちながら戦国大名というにはほど遠い勢力でした。隣接に領土を持つ安東氏が度々領土に侵入してきますが、少数の兵力で打ち破っています。その際、捕虜には一切危害を加えずに敵方に帰すという情け深い一面を持っています。
 また、盛安は仙北唐松野という地で安東氏と激戦を繰り広げました。この戦いは領土拡大というより、安東氏・戸沢氏双方にとって経済的に押さえておきたい拠点をめぐる戦いだったようです。安東勢3,000人、戸沢勢1,200人と戸沢勢が劣勢でしたが、盛安の巧みな陣頭指揮によって安東勢を打ち破りました。
 戸沢氏にとって安東氏の侵入は「目の上の瘤」でしたが、周辺の情勢にくまなくアンテナを張っていた盛安は、安東氏の内紛につけこんで安東氏の勢力を併合しようと企みますが、内紛の終焉によって併合を達成することは叶いませんでした。しかし戸沢氏は盛安のリーダーシップによって国衆から4万石を領する大名になりました。
 安東氏との争いの中、中央では豊臣秀吉が北条氏の小田原攻めを決定しました。かねてよりと中央と誼を通じていた盛安はわずか9名の供といち早く小田原に参陣し、秀吉より本領を安堵されました。小田原参陣までには紆余曲折があり、道中の出羽酒田の地で路銀が尽きて商人から借金したり、増水する大井川を泳いで渡り、ずぶ濡れになったまま秀吉に謁見したりと波乱に満ちた参陣でした。結果的には秀吉にその行動を褒められて太刀を与えられました。
 しかし盛安は小田原攻めの最中、25歳で陣中にて病死します。先見の明を持って果敢に行動した青年武将はお家の行く末を案じつつ、どのような気持ちで病床についていたのでしょうか。死の直前、盛安は秀吉に子の政盛は幼いため、弟の光盛が家督を継げるようにお願いしたと言われています。
 その後、光盛が家督を継ぎますが、光盛も文禄の役に参陣途中に疱瘡で死去しました。盛安の子・政盛が8歳の若さで家督を継ぎますが、忠実な家臣の助けを借りながら領国経営に努めます。また江戸幕府の幕閣との絆を強化し、結果的に戸沢氏は出羽国新庄6万石の領主に出世を遂げました。短い人生ではありましたが、盛安は戸沢氏を国衆から戦国大名に引き上げ、積極的な外交活動などお家存続のための処世術の礎を作った名将でした。
 盛安の故郷である秋田県仙北市の角館城跡付近は武家屋敷通りが趣のある街並みを形成し、「みちのくの小京都」と言われています。例年「角館の桜まつり」も盛況で、ライトアップされた桜並木の見物に多くの観光客が訪れるスポットになっています。

(寄稿)ぐんしげ

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