於梶の方(お勝の方)
於梶の方 (おかじのかた)は、戦国時代の女性で太田康資の娘として1578年に生まれた。
父・遠山綱景は小田原城の北条氏重臣で江戸衆筆頭であり、母は遠山綱景の娘。
この母・遠山綱景の娘(法性院)は一旦、北条氏康の養女になって太田康資に嫁ぎお梶を産んだようだ。
なお、お梶の方は江戸重通の娘と言う説があるが、この場合、1590年、常陸・水戸城の江戸重通が佐竹義重の攻撃を受け、水戸城が陥落して結城晴朝もとへ落ち延び、お梶の方は太田康資の養女になったとされる。
ただし、太田康資は1581年に死去したとされているため、つじつまが合わない。
いずれにせよ1590年、徳川家康は江戸城に入ると北条家の旧臣らも徳川家に仕官しており、兄とされる太田重正が武蔵国豊島郡蓮沼において500石になったころ、13歳くらいの段階で於梶の方は江戸城にて侍女になったものと推測される。
於梶の方は馬術にも優れていたとされ、1600年、関ヶ原の戦いにも阿茶の局と共に徳川家康の本陣に詰めたと言う。
石田三成に勝利した徳川家康はお梶の名を「お勝」と改名させたともあり、お勝の方とも呼ばれる由縁だ。
その後、相模・玉縄城の松平正綱の側室になってお八の方と呼ばれたようだが非常に聡明だったようで、遠山利景または天海からの推挙もあり、江戸城に呼び戻されると徳川家康の側室となった。
1607年1月、30歳のときに市姫(徳川家康の5女)を出産。
そうそうに市姫は仙台藩主・伊達政宗の嫡男・虎菊丸(伊達忠宗)と婚約したが4歳で夭折している。
そのため、徳川家康は於万の方が産んでいた鶴千代(徳川頼房)、結城秀康の次男・松平虎松(松平忠昌)、池田輝政の娘・振姫らの養母に於梶の方を指名している。
また、於梶の方に侍女として仕えていた於六の方が徳川家康の側室として召し出されている。
1614年、1615年の大坂の陣にも徳川家康に帯同。
1614年の大坂冬の陣には於六の方も参じていた。
そして、お梶の方は駿府城の奥向きを任されたという。
徳川家康の死後は出家して英勝院と称すると、江戸・田安比丘尼屋敷にて暮した。
晩年は、相模国鎌倉扇谷(神奈川県鎌倉市)に徳川家光から化粧領を賜り、菩提寺・英勝寺を建立している。
於梶の方(お勝の方)は、寛永19年(1642年)に死去。65歳。
法号は英勝院殿長誉清春大禅定尼。
兄とされる太田重正の子・太田資宗(おおた すけむね) は出世しており、最終的に遠江・浜松城にて3万5000石となっている。
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