木村重成と妻・青柳の解説~戦国乱世の最後に咲いた美しくも儚い花

木村重成(きむら しげなり)と妻・青柳に関してご紹介申し上げます。
戦国時代最高のイケメン」と聞かれたら、皆様は誰と答えますか?美形の一族として名高かったと言われる織田信長、その信長の寵愛を一身に受けた美童の代名詞とも言える森蘭丸、あるいは前田利家、それに石田三成と言ったところでしょうか。
戦国時代により詳しいマニアックな人なら、戦国三大美少年と呼ばれた名古屋山三郎、不破万作、浅香庄次郎の三人を挙げるのかも知れません。

しかし単にルックスだけではなく、その生き方、そして死にざままでもが完璧なまでに美しくカッコいい武将と言えば、木村重成その人しかいないと言って良いでしょう。
そんな木村重成ですが、生年月日ははっきりとわかっていません。父は秀次事件に連座して自害させられた木村重茲、母は宮内卿局という女性であると言われています。
生まれてすぐに秀吉の命令によって父と、そして兄と姉までもが殺されたというから、かなり不幸で暗い幼少時代を送らねばならなかったことは容易に想像できます。
しかし幸いに助命された母が秀吉の後継者である豊臣秀頼の乳母に選ばれた為、重成もまた幼い頃から秀頼の小姓として仕えます。恐らく重成は何とかして父や兄達の汚名をそそぎたい、木村家の名誉を輝かせたいとの思いで必死に武芸と学問に励み、また秀頼には誠心誠意仕えたことでしょう。
そのかいあってか重成は秀頼から全幅の信頼を寄せられ早くから豊臣の姓を与えられ、重臣の扱いを受けて重要な会議にも参加します。重成の当時の年齢ははっきり分かりませんがおそらくは秀頼とほぼ同年代、その為この二人は主従の関係を超えて兄弟、あるいは親友同士のような感情を抱いていたのではないでしょうか。





しかしそのようにまだ若いにも関わらず、主君から特別扱いされているような人物はどうしても周囲の嫉妬を買ってしまうのは致し方ないことなのでしょう。
その上重成は大坂城第一の美男子と称えられるほどの美貌の持ち主であり、多くの女性の憧れの的でした。そしてついには絶世の美女と呼ばれていた青柳という女性に熱烈に愛され、結婚したのですから、なおさら多くの連中から妬まれ、憎まれてしまったのです。
そんな中でも特にとある一人の茶坊主が重成への嫉妬と嫌悪を募らせ、方々で重成への悪口雑言を言いまわっていました。すぐにそのことは重成の耳に入りましたが、重成は全く相手にしません。
それがかえって茶坊主を増長させました。「ふん、所詮あいつは顔がキレイなことだけが取り柄の腰抜け。戦に出たことも無く、人を斬る度胸などありはしないのだろう」と。
そして遂に茶坊主は重成と直接対峙して暴言を吐きました。耳にするのも汚らわしい、卑劣で悪意に満ちた罵倒の数々。遂に重成の白皙秀麗な顔に怒りと殺意が浮かび上がりました。
重成は若輩と言えど、いざとなれば秀頼の盾となる身として、また来るべき徳川との戦に出陣する為に血のにじむような武芸の鍛錬を積んでいました。その研ぎ澄まされた殺気は増長しきっていた茶坊主を一瞬で震え上がらせ、無礼打ちを覚悟させたでしょう。
しかし重成から殺気と怒気が発せられたのはほんの数瞬。すぐに重成は微笑してこう言いました。
「本来なら、ここまで侮辱された以上、お前をこの場で切り捨てるのが武士として当然なのだろうな。だがそれでは私も腹を切らねばならぬ。死ぬことは少しも恐れるところではないが、今は秀頼様の一大事。私は秀頼様の為にこそ死なねばならぬのだ。お前如きの為に死ぬわけにはいかない」
そう言って静かに去って行きました。以後、重成の悪口を言ったり、軽く扱う者はいなくなったということです。顔だけではなく、その心構え、振る舞いまで非の打ち所がないイケメンと言うしかありません。

さて、そんな木村重成の初陣、デビュー戦は大坂冬の陣です。豊臣家を滅ぼして完全なる天下統一を果たそうとする徳川軍は何と総勢二十万。一方迎え撃つ豊臣軍は半分の約十万。しかもそのほとんどは寄せ集めの浪人集団に過ぎないという圧倒的不利な条件での戦いでした。
初陣というのにあまりに大規模にして過酷な戦。おまけに直接戦う相手は天下に名高い上杉景勝佐竹義宣が率いる精鋭部隊です。にも拘らず重成は全く怯むことなく勇猛果敢に戦い、遂には佐竹家の家老、渋江内膳(岩明均のマンガ雪の峠の主人ですね)を討ち取ります。
重成の活躍はこれで終わりません。配下の一人がいないことに気づくと、単騎で矢玉が飛び交う戦場を駆けまわり、負傷した配下を見つけると馬から降り、抱きかかえて悠々と撤退しました。
この重成のあまりに見事な活躍を聞いた秀頼は「日の本無双の勇士なり」と激賞しました。秀頼にとっては我が事のように嬉しかったことでしょう。このことによって若き勇将、木村重成の名は天下に轟き、遂には真田幸村後藤又兵衛、長曾我部盛親といった名高い猛者と並び称され、「豊臣四天王」の一人に数えられるまでになりました。





さて、徳川軍は圧倒的な大軍で攻め寄せたものの、やはりあの大天才、豊臣秀吉が築き上げた天下の名城である大坂城を落とすことが出来なかった為、冬の陣は和議でもって幕を下ろすことになりました。
秀頼の名代に選ばれたのは、当然と言うべきか、木村重成その人です。重成は誓紙を交換する為に徳川本陣に乗り込みました。その場にいた藤堂高虎井伊直孝と言った歴戦の古豪達が若く美しい重成に好奇、あるいは威嚇や侮蔑と言った視線を浴びせますが重成は全く動じません。
そして家康から誓紙を受け取り、素早く目を通した重成はこう言い放ちます。
「大御所(家康)様が押された血判、薄くて読みにくうございますな。もう一度押していただけませぬか?」
重成の言葉に徳川陣営は騒然となります。この生意気な小僧、斬ってしまえと殺気に満ちた叫びがあちこちから上がります。しかし重成は相変わらず平然としています。
一方、孫の様な年齢の若者に非礼な真似をされても、そこは流石の家康です。周りの諸将の様に怒りを面に出しません。ここで和議が敗れたら困るからなのか、あるいは重成の女性の様に優しく美しい顔に似合わぬ胆力に感心したのか、
「おおすまん、もうわしも年じゃでな。血が薄くなってしまったのかも知れん」
と穏やかに再度血判を押します。その誓紙を受け取った重成は徳川本陣から去って行く際、先程までの傲岸なまでに平然とした態度とは打って変わった丁重な態度で徳川諸将に無礼を詫びます。
「皆様方、先程までは大変御無礼を致しました。心よりお詫び申し上げます。しかし本日の私は右大臣秀頼の名代たる身。我が主君の名を傷つけることはあってはならぬ故、あえてあのような振る舞いを致しました。何とぞお許し下さい」
そのあまりに涼やかで立派な態度には先程重成を侮り、怒声を浴びせた諸将は言葉も無く、ただ恥じ入るばかりでした。家康はその老いた顔に感嘆の表情を浮かべ、
「見事な若武者よ。秀頼公は良い家臣をもっておる」
と言ったとか。

さて、そのような決死の覚悟で和議の席に挑んだ重成の活躍も空しく、やはりというべきか、豊臣側と徳川方の講和はわずか半年で終わりを告げます。徳川家からすれば、やはり和睦したにも関わらず、浪人を招集する豊臣家はやはり見逃す訳にはいかなかったのでしょう。
一方の豊臣側は最早勝ち目無しと多くの者が武器を捨て去って行く者が続出した為、戦力は大幅に減少しています。また大坂城も先の和睦の条件として外濠のみならず二の丸、三の丸も埋め立てられており、到底籠城戦は出来ず、野戦意外に選択肢はありません。
もはや豊臣家の敗亡は火を見るよりも明らかです。重成は潔く討ち死にし、豊臣家に殉ずる覚悟を速やかに、迷いなく固めました。そこで見苦しい死にざまを晒さないようにと、食事を制限します。討ち死にした際、切り口から食べ物が飛び出ることがよくあったからです。そのような骸を晒すことだけは絶対に避けたかったのでしょう。
また結婚してわずか数か月で永遠に会えなくなることになった新妻、青柳に兜に香を焚かせます。自身の死を可能な限り美しく飾りたい。己の短い生涯の最後を壮烈な光で輝かせ、わずかでも後世の人の記憶に残りたい。二十三歳の若武者の思いはただそれだけだったのではないでしょうか。

1615年、5月6日早朝、木村重成は若江方面に出撃します。敵は百戦錬磨の猛将であり、外様でありながら家康の信頼篤い藤堂高虎の軍勢です。ですが重成は果敢な戦いぶりで見事撃破します。
次いでやって来たのは徳川家の精鋭部隊として知られる井伊直孝率いる赤備えでした。家臣の一人が撤退を提案します。藤堂軍との戦いで兵達の多くが負傷し、疲労しています。
よりにもよって赤備えが相手となると、到底戦えないと判断したのでしょう。ですが重成はこれを突っぱねます。既に死の覚悟は完了し、また戦の興奮で昂り切った重成はからすれば、徳川の総大将である家康、もしくは秀忠が率いる兵と戦わねば到底満足できませんでした。
そして遂に両軍は激突します。井伊直孝率いる赤備えはかの武田信玄以来の伝統を受け継ぐ天下最強の部隊です。疲労の極みに会った木村軍ではやはり歯が立たず、兵達は次々と討たれて行きます。
ここが己の死に所と悟った重成は、これまでの血がにじむような鍛錬で身に着けた武芸の限りを尽くして戦います。その若々しい五体には最後の生命の炎が燃え盛り、振るわれる槍は電光となって迸り、井伊の赤備えの武者達を次々と屠って行きました。
しかし敵の十文字槍の槍の穂先が着ていた母衣に引っ掛けられ、遂に重成は落馬し倒れてしまいます。そしてそのまま止めを刺され、首を獲られてしまいました。享年23歳。
重成を討ち取ったのは庵原朝昌という老練の武将ですが、安藤重勝という若い武者が「まだ手柄が無い故、その首を譲って下さらぬか」と懇願して来た為、譲ったという話です。





重成の首実検を行った家康はその頭髪から嗅ぎなれた生臭い血の臭いなどではなく、伽羅のものと思われる良い香りを嗅ぎ取ります。重成が出陣の前に兜に名香を焚きしめたのだと悟り、
「これぞ真の武士の嗜みよ。木村重成はまだ若いというのにその心がけは見事と言うしかない。惜しい武士を死なせてしまった」とその死を惜しみました。
まさに戦国乱世の最後に花開き、見事散って行った武士道の精華。その姿には戦国乱世を真の意味で終結させようとする徳川家康こそが誰よりも感動を覚えたのではないでしょうか。
そして残された重成の妻、青柳は妊娠していました。親族に匿われて男児を出産すると、出家します。そして重成の一周忌を終えると共に自害して果てます。享年二十歳。
夫婦共にあまりに儚く、詩的とすら言える生涯でした。

(寄稿) 頼 達矢

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