御宿正友とは
慶長19年(1614)に方広寺事件をきっかけに起こった大坂の陣。徳川家と豊臣家の宿命の決戦の時、豊臣家は浪人衆と呼ばれる、多くの浪人を従えて徳川家に対抗しました。
浪人衆には真田信繁や後藤又兵衛といった名のある武士たちが名を連ねる中、今回ご紹介する御宿政友もそこにいました。政友は徳川家康から浪人衆の中で又兵衛と共に武士らしい人物に数えられた実力者。
しかし、あまり脚光を浴びていないこともあり、影の薄い人物であることは確かです。そのため、政友を多くの方に知ってもらいため、まとめさせていただきました。
武田、後北条、徳川と転々した
御宿政友のいる御宿家は駿河国の有力領主葛山家の一門で今川家に仕えていましたが、今川家の衰退により武田家に仕えます。そして、政友自身は武田信玄の侍医だった御宿友綱の長男として生まれました。
政友は弟の御宿政綱と父の友綱が仕えていた武田家に仕えますが、天正10年(1582)に滅亡すると後北条家に3人で仕官。後北条家も天正18年(1590)に滅亡すると、父と徳川家康に仕えました。ちなみに政綱は家康に仕えず、家康6男の松平忠輝に仕えています。
主家背いたことで浪人に
その後、徳川家に背いたことと父から勘当されたことで、政友は結城秀康に拾われます。慶長12年(1607)に秀康が病死すると子の松平忠直に仕えますが、仲違いしてしまったことで出奔。慶長15年(1610)から浪人となりました。
大坂の陣での活躍と最後
そして慶長19年(1614)に大坂冬の陣が勃発すると、政友は浪人衆の1人として大坂城に入ります。この報告を受けて怒った忠直は、政友に5千石の懸賞金をかけたといわれています。友政は冬の陣においては、本町橋の夜討ちで塙団右衛門と共に戦い、戦果を挙げました。
翌年の大坂夏の陣では、最終決戦となる天王寺・岡山の戦いに参加します。
この戦いの前に政友は、馬がなかったので忠直の家臣で旧知の仲だった野本右近に、忠直が気に入っている馬・荒波が欲しいとの内容を伝えます。右近は忠直このことを使えますが、もちろん激怒。
それでも右近が説得した結果、政友に荒波が渡りました。政友は荒波と共に岡山方面に布陣し、戦場を駆けます。そして、皮肉にも旧知の仲だった右近と戦い、討ち死にしました。
御宿家の刀は徳川家康のもとに
ちなみに天正12年(1584)に織田信雄から徳川家康に贈られた名刀・妙純傳持(みょうじゅんでんじ)ソハヤノツルキウツスナリは元来御宿家伝来の刀だったとされています。この刀を家康はいたく気に入り、戦場で帯刀しただけではなく、枕元に置く護身刀にも用いたほどでした。
(寄稿)拾丸
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