教光院如春尼とは
浄土真宗が僧侶の婚姻を許可し、寺も世襲であるケースが多いのは広く知られていますが、それは総本山たる本願寺も同じで、代々親鸞の系譜を受け継いでいます。
その本願寺が戦国時代に幾度もの困難に直面した時、そのピンチに立ち向かった女性がいました。彼女こそが、本願寺顕如の妻にして本稿の主人公・教光院如春尼(きょうこういん にょしゅんに)です。
如春尼は天文13年(1544年)、当時の右大臣であった三条公頼の三女として生誕しました。実名は伝わっておらず、本稿では如春尼として表記します。如春尼の姉は細川晴元室、武田信玄の妻・三条の方がいますが、彼女は生まれたその年に姉婿である晴元と養子縁組しました。そして、本願寺の10世・証如の息子である茶々丸(のちの顕如)と婚約します。
弘治3年(1557年)、如春尼は六角義賢の猶子として迎えられ、14歳(数え)で顕如と結婚しました。翌年、彼女と顕如との間には長男の本願寺教如、永禄7年(1564年)に次男の顕尊が誕生し、天正5年(1577年)には三男の准如(彼女の子ではないとする説もあり)を授かっています。
教団の内部闘争
当代の名だたる公卿・武将3人を実父・養父に持ち、本願寺宗主の妻となってからは共に一門を守ってきた如春尼の人生は、一見すれば輝かしいものに見えますが、それはひとつの戦いが原因でもろくも崩れ去りました。その戦いが、本願寺と織田信長との間に勃発した石山戦争です。
天正8年(1580年)、10年にも及ぶ戦争が終結して顕如が大坂の石山本願寺を退去すると如春尼もそれに随行して鷺森御坊に移住しますが、教如と彼を奉戴する人々が本願寺明け渡しに反発して抗戦する事件が起きます。この件は、後に彼女のみならず本願寺そのものにとっても大きな禍根を残すこととなる事件でした。
それ以降の顕如・如春尼夫妻は天満本願寺への転居を経て、天正19年(1591年)に京都の七条烏丸へと移り住みますが、天正20年(1592年)11月24日に夫の顕如が逝去します。その翌日、如春尼は光栄寺の僧・明春を戒師として出家、教光院如春尼と名乗りました。
本願寺分裂
顕如亡き後の本願寺の宗主は教如が後継しますが、如春尼は生前の顕如が遺した『留守職譲状』を根拠として豊臣秀吉に訴え、教如ではなく准如を後継者にするよう言上します。この訴えは豊臣政権に受け入れられ、教如は10年後に准如に宗主位を譲る事を命じられたのです。
嫡子の教如を退け、一説には実子では無いとも言われる准如を就任させた理由は諸説が存在し、秀吉が教如に示した11カ条の中には退去を拒んで争いを引き起こした教如をはじめ、彼が趙愛していた側室・教寿院をも批判・糾弾する箇所があるため、両者の確執があったとも言われています。
それに対して教如に仕えた坊官(寺院の指導者に近侍する僧)らが反対したり、教如の実弟である顕尊が准如に自分の娘を嫁がせて味方することを表明するなど、当時の本願寺には熾烈な内部抗争が勃発していました。最終的には秀吉の怒りを買った教如側が敗れて准如の後継が決まり、後継者を巡る内部闘争は終結します。
本願寺の跡目争いがひとまず終着したのを見届けた如春尼は慶長3年(1598年)に55歳で世を去りました。しかし、彼女が奔走して和解させたはずの本願寺教団は教如率いる東本願寺と准如の西本願寺とに分裂します。如春尼の死後4年たった、慶長4年(1602年)のことでした。
教如ら強硬派を抑えつける言動が目立つため、本願寺教団分裂の元凶と批判されがちな如春尼ですが、戦国乱世の不安定な時代に存在していた本願寺を守るために動いた事も確かであり、彼女の息子達が残した二つの寺(東・西の本願寺)は今も浄土真宗を形作る宗派として存続し続けています。
(寄稿)太田
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